皆殺しの天使 (ルイス・ブニュエル監督:メキシコ映画)

 スペイン出身で内戦後にメキシコに帰化したルイス・ブニュエル監督の1962年製作作品で、不条理なシュルレアリズム映画として有名です。ネット上も「訳が解らない」という観想が多いのですが、「晩餐会の後で部屋から出られなくなった」という起こっている事自体は理解しやすく、ただそれが起きた理由に一切の合理的説明がされていないという不条理さです。物理的に閉じ込められているわけではなく、しかも問題の部屋は隣の部屋との間に壁すらなく敷居しか境界がないので画面的にも非常に奇妙に見えます。ブニュエル監督自身もこれに対する説明を拒んでおり、観た者に解釈を任せる態度を取っています。従って多くの解釈が可能であり、画面で描かれた事に明確に矛盾する説明でなければ全て間違っていないと考えられ、私自身は以下のような解釈をしました。
 部屋から出られなくなったブルジョアたちを代表とする上流階級の良識的な人々は、一見すると自由であるが社会のさまざまな慣習や礼儀作法、道徳に縛られており自由に行動できない。すばらしいもてなしの晩餐会から途中で退席する無作法を侵せずに帰る切っ掛けを失ったまま翌朝まで居続けた出席者は、他の人々が誰も部屋から出ない事に気づいたときに「この部屋からは出られない」という強迫観念に囚われてしまった。一旦強迫観念に囚われた後は、部屋から出ようとした誰かが躊躇して立ち止まるたびに「やっぱり出られない」という意識が強まり、生理的欲求ですらその強迫観念を破る事は出来なくなってしまった。屋敷の外の人々も同様で、「誰も門の中に入れない」という集団心理に気づかなかった子供だけは始めは中に入れたものの、見守る大人たちの異様な雰囲気に飲まれて引き返してしまった。
 「ワルキューレ」レティシアによって最初の夜と同じ位置に居る事が指摘され、彼女の指揮によってついに部屋から出る事が出来たのも、彼女の芝居がかった喋りによって「あの夜と同じ事を繰り替えせば部屋から出られる」という別の強迫観念に囚われたのが原因で、実際には正確には繰り返されていない(そもそもあの時点で三名が死亡しているので、その三名は同じ位置に居ない)のだが意識朦朧状態の客たちはそれに気づかなかったので問題なかった。
 一方で晩餐会の直前に執事以外の使用人が次々と屋敷を去ったのも、ある意味彼らの集団心理によるもので、最初の数名がそれぞれ別々の理由で屋敷を出る事にしたのが偶然に合ったために、「自分もここに居られない」という強迫観念に囚われたものである。教会でのラストシーンはやや説明が難しいのですが、教会の外での大虐殺と教会に逃げ込む羊の群れを描く事によって、それまでの事件に深遠な意味があると思わせる監督のミスリード(というよりもお遊び)のような気がします。
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